第1章 人間中心のテクノロジー
この章には何が書かれているか?
テクノロジーは、人間を賢くする可能性と愚かにする可能性の両方を持つ
テクノロジーによって可能になること
より深く、より明快に考えることができる
正確な情報を入手する手段を得られる
他の人と効率良く仕事ができる
ex.
書くことや読むこと
美術や音楽
論理的思考
辞典と教科書
科学と工芸技術
テクノロジーによって起こる弊害
テレビやコマーシャルが私たちを虜にしてしまう
人工的な複雑さがイライラを生み出す
rashita.iconインタラクティブなマルチメディアは、過去のメディアの上位互換と言えるだろうか?
人間の心的能力を補助するための道具を発展させていきたいという願い
しかし、
われわれの認知能力側が、認知の助けを借りて造り出された道具によって操られているのではないか、という疑問
も同時に持った旨が記されている。
テクノロジーのネガティブな面
人を縛りつける働きもしてしまう
人間を奴隷化する
テクノロジーを使うために人間が働き、その能力によって人の価値が測定される、というようなこと。本書の後で言及される。
麻薬としても働き、生産的な営みから遠ざける
テクノロジー中毒者
rashita.icon「見る人の知的レベルを下げる新しい手段」と著者は呼ぶが、はたしてそんなことは可能なのだろうか。
そうしたテクノロジーが行っているのは、認知資源の略奪ということなのだろう。 rashita.iconたとえば「本」というテクノロジーは、人を家の中に閉じ込めかねない力も持つか、それはどのように評価されうるか
言及された本
『神聖さの欠如の中で』(ジェリー・マンダー)/『In the Absence of the Sacred』Jerry Mander) 上記のような要素があるにせよ、それらをすべて捨て去るべきだという主張は著者はとらない。
マイナス面よりもプラス面が上回っているという認識。
人間の知を構成するもの
その大部分がアーティファクトを作ることだと著者は述べる
『知ってるつもり』との関係
rashita.icon認知的分業は、単に複数の人において「知識」を保存するだけでなく、道具という形でそれを保存することも含まれると解釈すればいい
人類の脳は、他の動物の脳よりも高度な処理ができるかもしれないが、限界はある。
人間はその限界を超えるためのさまざまな道具を作ってきた。
そうした道具が増えるほど、学ぶべき知識が増えてくる→専門家の誕生
はるか昔、テクノロジーをうまく使える集団とそうでない集団がいたら前者が覇権を取りやすかったのは想像しやすい
当然そこに権力勾配が生まれる
rashita.iconテクノロジーの発展が権力(機構)を生み出す、と言えるか
ただしこれは計画されたものではなく、偶然的なものだった。
rashita.iconある意味で、進化と同じだったと言えるかもしれない
人間中心主義に向けて
科学が発見し、産業が応用し、人間がそれに従う
1933年、シカゴ万博のスローガン
motto
Science Finds, Industry Applies, Man Adapts
テクノロジー中心的な視点
かつてのテクノロジーは人の体に合わせてデザインされていたが、今は人の心に合わせる必要がある
機械に適用してうまくいった分析的手法がそのまま人間に使えるわけではない
人間の理解について機械中心主義を適応する過ち
測定の数学的手法
機械中心主義の視点で人間を評価すると
人間はすぐに気が散る
文法通りに喋れない
感情が意思決定に影響を与える(非論理的)
ヒューマンエラー
しかし、そんな愚かな(劣った)人間がまさしくそうした機械を作り、テクノロジーを発展させてきたのは一つの事実。
『知ってるつもり: 無知の科学 (ハヤカワ文庫 NF 578)』と同じ論理展開
つまり、人間を愚かだとする(劣っているとする)その価値体系がそもそも誤っているのではないか。
そして、その価値体系が「機械中心の見方」(機械中心主義と呼んでもいいだろう)とイコールで結ばれる。
機械が得意なことを(ことだけを)良いこととして、別の指標を持っていない。
こうした単一の評価軸しかない状態を「モノ・イデオロギー」と呼称してみたいrashita.icon
短縮してモノロギーとかでもいい。
私の目標は、認知に関するテクノロジーに対して人間中心の見方を展開していくことである。
反テクノロジーではなく、人間擁護として
テクノロジーは、より良い生活を作り出す人間の友人
テクノロジーの人間的な使い方
人間の不得意な活動を助け、得意な活動を拡大発展させる
テクノロジーに関するすべての責任はわれわれ人間にある
rashita.iconそれを作ったのが人間だからだろう。自然に生まれたものではない。
よってテクノロジーの副作用についても、われわれ自身がケアしていく必要がある
産業の発展において「よし、環境破壊してやろう!」という意図で行われた環境破壊はなく、あくまで副産物的に生まれたもの。
同様に情報テクノロジーにおいても、副産物的に問題が生じている
たとえばプライバシーの問題
rashita.icon他には何があるか
著者は「心の生態系」という表現を用いている。
rashita.iconその生態系は何によって構成されているのか
情報爆発の時代
情報は大量に生まれているが、人間が消化するにはその量は多すぎる
質も怪しい
ジャンク・インフォメーション
さらに偏りもある
現代で生み出されている統計的情報は、「区別しやすく、数えたり測ったりしやすいものに限られている」
量的なものばかりで、質的なものが限定的
いわゆる効率化のはしり
「労働者の効率を上げ、疲労を減らし、熟練労働者の生産性を高める」という目標には最適だった。しかし、その目標は適切だったのか。
短期的には生産性を高めたかもしれないが、長期的には生活の質を落とし、製品の質も落としてしまった
なぜそんな結果になったかと言えば、そうした研究では行動主体が「人間」であることが忘れられていた(捨象されていた)から
rashita.iconこれと同じ問題は現代まで連綿と続いている
研究のためにはモデル化は避けられないが、何を捨てて何を残すのかという判断を誤るとそこから導かれる結論はその有用性を大きく損なわれてしまう
人間は考え解釈する生物
心は常に説明を探し、解釈し、仮説を立てようとする
rashita.icon物語る動物、あるいは意味の探究者(meaning seeker)
能動的、創造的、社会的存在
rashita.iconここでの能動は「指示待ちでなく」という意味で機械的なものとの対比だろう。
実際は環境からの刺激を受けて反応する、という部分が多いように思う
人間は他者との交流を求める
他者が要求していることを理解しようとして自分の行動を変える
一つの部屋を立体的に理解したければ、いろいろ動き回って(視点を動かして)情報を増やす
他者に対する行為も似たような側面がある
工学的的アプローチ(機械中心の見方)では、上記のような人間の傾向が妨げられてしまう
単位時間あたりの操作数ばかりに注目が集まり、人間が所属する社会構造から切り離されてしまう
rashita.icon学校で行われる試験も似たところがある。他者の協力を引き出すことに長けた人ははるか昔の社会ではかなり優秀な人間として扱われたはずだが、試験で高得点を取れるとは限らない。チームの雰囲気を柔らかくする人や、他人をモチベートする人も、試験という特殊な環境ではその能力は測れない。
rashita.icon個人を大切にする、という考えは大切だが、個人の能力を閉鎖的な環境で測定することは人間の本性にあまり親しくないと言えるかもしれない。
効率のためにルーチン化された操作は機械向き
人間では反復ストレス症候群、燃え尽き症候群を引き起こす
人間がすり減り、やがて会社を辞めてしまう
会社運営において余計にコストがかかるようになる
正確な測定が科学の基礎
人間科学や社会科学における測定には限界がある
人間は複雑な存在で、その行動は
多様な相互交流
ネットワーク
生まれてからの経験や知識
微妙な社会的関係
などによって生まれる
しかし科学的な測定は、測定する変数を絞ってしまい、全体が捉えられなくなる
要素還元主義と全体論
ハード・サイエンスは、精密で正確な測定に頼る科学
ソフト・サイエンスは、観察や分類、主観いよる測定や評価に頼らなければならない科学
rashita.iconここに「分類」が出てくるのが興味深い
ハード・サイエンスが抱える問題
測定できるものだけを重視し、他を無視する
ソフト・サイエンスはそこで捨てられてしまうものを拾おうとする
人文的なものはこちらに属するだろう
テクノロジーは、われわれの思考や文化的生活を支援するが、同時に生活のある一面を意図的に重視し、他の面を無視する考え方をもたらしてしまう
その取捨選択は、要素の重要性からではなく、単に測定かどうかに依ってしまう恣意的なもの
人間の二種類の認知
著者はエンタテイメントのテクノロジーについて危惧している。
なぜか。以下のバランスが悪いからだろう。
人間の認知のモードは多様だがこの本の議論では以下の二つの違いに注目する
体験的認知(experiential cognition) 内省的認知(reflective cognition) これら二つの認知を支援するテクノロジーは異なっている
そのズレがよくない状態をもたらす
体験的状況に対して、内省のためのツールを与える
内省的状況に対して、体験のためのツールを与える
rashita.iconここが本書の中心的な問題意識と言えそう。
適切な比率の内省を促進する
人間には両方のモードが必要だが、内省の方がより支援を必要としている
体験モードは体験すればいいが、内省はそのようにはいかない
いわゆる認知資源を必要とする
効果的な内省には何かしらの構造や仕組みが必要となる
体系的な手順と手法
rashita.icon体系や構造それ自身が情報を持つので、外部足場となってくれる
論理もその一つに数えていいだろう。
この点はもう少し掘り下げたい
どのような「体系的な手順と手法」がありうるのか。
習熟し、体験モードにまで落とし込まれたら「体系的な手順と手法」は必要なくなる。
熟練者が、初心者向けの説明を嘘臭く感じるのはそのためだろう。
新しいコンセプトを取り入れようとしている初心者にとって体系的な構造は必要性が高いと言える。
エンタテイメントなどは新しい体験を与えはするが、人間がものごとを理解する上での新しいアイデア、新しいコンセプト、進歩、をもたらすことはできない。
内省が必要
他人の体験に没頭すること(代理体験)は能動的参加の変わりにはならない
以上第一章のメモ
印象深い部分
p.23 さて、われわれを賢くしてくれるのはエンタテイメントなのだろうか
著者は反語的に問いかけている。つまり、そうではないだろう、と。
ここで足早に「漫画を読むのは教育上よくない」的な話に接合するのは早計だろうが、でも仮にそうじゃないと言えるとしたらなぜそういえるのかは疑問に持っておきたい。
「エンタテイメント」という区分について反論する
「賢くする」を多義的に捉える
それぞれの読書メモ
それぞれのレジュメ
雑談目的ページ